医療法人社団 充会 上川病院

講演資料

講演資料

若月賞受章記念講演

1. 創設者 吉岡 眞二

精神科医として、統合失調症の患者さんの治療と社会復帰に40年間頑張った立派な医者であった。若月賞の第1回受賞の浜田晋先生も松沢病院の同僚でもあった。巨大化していく都立松沢病院の中で、自分の目指す医療ができなくなったと、自宅を売り払い、彼の言葉を借りると八王子の奥の文化果つる地に、小さな精神病院を作った。(1970年)慢性期の統合失調症の患者さんの社会復帰を目指した。回転ドア現象を少しでも少なくし、社会での生活を少しでも長く過ごしてもらうために、足腰を鍛えることがその治療の原則でもある。自ら日曜日外来を続けていた。明確な人権意識をもった知識人でも有り優秀な人であった。人格的にも周囲から尊敬される人であった。私は同じ医師として彼を超えることができないと思っているし、それはそれでよいのではないかと、今は思えるようになった。彼と私の関係は、死亡時、朝日新聞の論説委員であった大熊由紀子さんが書いてくれた「ポアと抑制」の原稿が美化されているが、要約もされている。当時私は、わが国の老人医療そのものと、すべてに対して絶望的になり、すさんだ日々を送っていた。
「ポアと抑制」
 言葉は魔物だ。
「人殺し」を、「ポア」と言い換えれば、罪の意識は薄くなる。殺人を「人助け」と錯覚させることさえできる。
言葉の魔法はオウムの専売特許ではない。たとえば、日本の医療界ではベットに縛りつけることを「抑制」と呼び、人手不足ゆえの「やむをえない行為」として日常的におこなっている。
東京・八王子にある上川病院の吉岡充理事長は、「もし抑制するなら、その本質をはっきりさせるために『縛る』と表現するべきだ」と病院の中でも、外でも主張してきた。
効果はてきめんで、同病院の看護師たちは、縛らない看護技術を蓄積していった。だから、よその病院でも縛られていた人もここでは縛られない。
「抑制」か「縛る」か、言葉によって人の気持ちはまるで変わるのだが、こんな指示を出す医師はごくまれだ。わけを尋ねたら「おやじを見て育ったから」という答えが返ってきた。
父の眞二院長は、患者思いの精神科医として知る人ぞ知る存在だ。都立松沢病院医長だった1960年代、海外の開放的な精神医療を紹介する冊子を全国の医師、看護者に送り続けて病院改革のきっかけを作った。当時はコピー機もない。文献を写真に撮り、暗室にこもって焼き付け、同僚に翻訳の分担を頼み、印刷は患者と共同作業した。
「患者さんと医師は対等」という信念から敬語で接した。多くの精神病院が無断退院を「脱院」と呼び、厳しいみせしめの罰を与えていた時代に、それを「お出かけ」と呼び、戻ってくれば玄関で笑顔で迎えた。
その眞二さんが20日、自宅で息をひきとった。人柄を慕う人々がまくら元で見守った。「父と師を一度に失いました」と充さんは肩を落とした。葬儀は24日午後3時、東京・中野の宝仙寺で。

2. 我が国の老人医療の進化

私も父と同じ松沢病院で5年近くを過ごした。多くのことを学んだ。先輩達のカルテを含め、技術を盗んだ。20年前、老人保健法制度直後、上川病院を今後どうするかという決断に迫られた。借金は増えつづけている。父の家、病院を売却すれば借金、スタッフの退職金も払えチャラにできる。幹部会を開き、皆に相談した。閉鎖するか私が上川病院に参加し、増床してやり直すか、皆は後者を選択してくれた。そして、一般内科の老人のリハビリテーション病棟48床を作ることになったのだが、スタッフの協力は得られなかった。当時の松沢病院のOBを中心としたスタッフはそもそも働くことがあまり好きではなかった。治療的なよりよい環境を作ろうとした父は、多くの給料を出していた。私は、他の民間の老人病院のスタッフに教わりながら設計した。当時のわが国の老人医療は悲惨そのものであった。典型的な1つの例に、埼玉県のM病院事件がある。200床の老人病院で、毎年400名の退院があったという。そのほとんどが、死亡退院。ほとんどの患者さん達が入院直後に点滴を受ける。3つ位のコースがあったようだ。ABCとか松竹梅とか。熱があれば抗生剤でも足されるのだろう。こんなところにいては本当に死んでしまう、と逃げ出して助かった人の後日談もあった。国立大学出身の院長だったらしいが、地主が建設屋さんと共同して建設した病院を、彼にリース契約で貸していたらしい。そのリース料が高かったのであろう。医療費そのものも、とてもお粗末なものであった。医師・看護師が常駐していて、3食付いて1日数千円の入院料だった。残りは出来高払いの収入である。マスコミは「氷山の一角」「営利のみを追求する悪徳老人病院」と一斉に非難した。この老人病院バッシングは、今でも続いている。確かに当時は多かれ少なかれこれが現実だったのだ。全世界に例のない、高齢化への速度と加速度をもった日本という国の悲劇の一つでもあった。制度以外にも、私たち老人医療に携わるもの達が老人医療のあるべき姿を知らなかったこともある。縛りつけ、点滴漬けの医療が現実にそこには日常的にあったのである。何とかしなければならないと私は思った。動機はさまざまではあっても、このあたりのことに気づいた仲間達が、全国に何人かいた。天本宏先生を頭とした「老人の専門医療を考える会」を発足することができた。初代の事務局長をしていた私は、初めての市民対象の公開シンポジウムの進行係りをしている時、足の震えが止まらないのを今でも覚えている。マスコミを中心に、どんな質問が出てくるか、非難があるか、わからなかったからである。が、結果はとても好意的に受け止められた。私たちの実践の中身をなるべく正直に語り、皆さんの意見を聞こうという姿勢は正しかったようだ。当時、市民対象の公開シンポジウムも今ほどは多くなかった。この老人の専門医療を考える会の活動は、その後もしばらく、この国の老人医療の変化、進化に影響を持つようになった。なにしろ老人医療そのものを真剣に考える場はなかったのである。メンバーはそれぞれの病院で現実的に権限を持つ医師に限った。自分が気づけば、自分の病院を変えられるからである。看護、リハビリ、ケアスタッフの研修、教育など、医師自らはワークショップ形式で、わが国の老人医療はどうあるべきかを模索し続けた。国立病院管理研究所の小山秀夫先生と岩崎栄先生にはいつもお世話になった。この会の主張の一つに、付き添い廃止があった。老人保健法で、特例許可老人病院という老人病院の規程ができた。それまで100人の入院患者さんに対し医師6名、看護師25名という人員配置を、慢性期ということで、精神や結核等の特例と同様に、医師を1/2、看護師を2/3、そのかわり日常生活のお世話もあるだろうということで、ケアワーカーを少し増し、ナース・ケアスタッフ合計30名となったのであるが、これでも人手不足はあきらかである。多くの老人病院が付き添い制度を併用することでこれを乗り切ろうとしていた。が、付き添いさん個々は、人の良いおばさんであっても家族に雇われているわけで、目は患者さんより家族の方へ向いていた。病院に帰属しているわけではなく、チーム医療・ケアにそぐわないことが多かった。1990年、老人病院の入院医療の定額制度が始まった。翌年、患者さん2人に対して1人のケアスタッフという、西欧に比べ日本人の勤勉さを考えたらしかたがないかな、という人手も付くことになった。ここから、わが国の老人医療は大きく変わっていく。人手が多くなると皆で話し合わなければならないという必要が出で来たのである。また、その余裕も出てきた。それまで、今日は私は点滴係り、私はオムツ係り、私は褥創係り、と、バタバタ1日業務に追われていたスタッフは、実は個々のお年よりの患者さんの1人1人を評価できていなかった。例えば、イソップ物語にもある様に、4人の目の見えない人が、象を、一人は耳を、一人は鼻を、一人は足を、一人はしっぽを触ってさあ象はどんな動物だと話あっても象はわからないといった状況だったのである。評価、ケアプランが必要になってくるのである。早期リハビリテーション、業務改善、質の管理、といった多くのことが、わが国ではバッシングの対象とされていた老人病院から始まるのである。後発の分野でもあり、混沌や矛盾が多いこと、老人医療が国民全体にわかりやすいということもあったのであろう。そして、介護保険へと向かっていくのである。療養型という概念はむしろこの定額の老人医療の実践の中で必然的に生まれてくるのである。もともと、長期入院を考慮していない病院のハードは、古くお粗末なものであった。人手が多くなり、入院患者さんに食事を食べてもらえるようになり、患者さんたちは元気になった。ベッドから起きられるようになった。車椅子やイスに座れるようになった。するとベッドとベッドの間に車椅子が入れるかどうか、食堂も必要だ。入浴も大切である。アクティビティの空間も必要である。リハビリの場も必要だ。こういったハードと定額医療のセットが療養型病床である。人手に関しては、長い間の老人病院バッシングの流れの中で、介護保険下で2:1の制度がなくなり、約2.4:1と逆行の道となっている。福岡の抑制廃止宣言の10の病院では皆、2:1+α、αは1割、50床で28名のスタッフがいた。これで点滴中も限りなく抑制を0に近づけることができたのである。この事実を私はことあるごとに話していたが、「人手が少ないから抑制がやめられない」という主張と矛盾するかのように解釈もされ、意図的にもかき消されてしまった。継続という意味でもすべての施設で2:1の人手が最低限必要であるというのが私の経験からの判断である。

図1-年表(PDF 104KB)

3. 認知症ケア

上川病院は精神科が母体だったこともあり、認知症の精神症状を持つ患者さんの入院依頼が多かった。彼らを縛らないでケア・治療することが認知症ケアの技術、工夫を生んでいた。私たちは認知症をこう定義づけている。記憶障害はもちろんのこと、他のさまざまな認知障害が同時に存在し、それまで可能であった日常生活や社会生活を以前と同じように行なうことが難しくなった状態であり、生活障害そのものである。また、問題症状、行動障害については、「記憶力や判断力が低下して、不安だらけの混乱した状態で行動を起こすが、それが現実とミスマッチとなる。本人にも困った、周囲にも迷惑となることも多い。」認知症がよくなるとは「問題行動の頻度が減り、勢いが弱くなることで穏やかになってお付き合いがしやすくなって、いままで認知症のために出来なかったことがいくつか出来るようになる。同時に人間らしさを取り戻す。」
認知症ケアそのものは総力戦である。治療的なそれも一人一人の生活を大切にする環境が必要である。これは、当院が精神科単科の時代から父によって作られていたものでもある。少し形を変え、われわれにも引き継がれている。まず、5つの基本的ケアがある。
図2-五つの基本的ケア
そして、縛らないことはあたりまえのことである。認知症になって、入院を余儀なくされた人たちの残された人生、生活、これをQOLと呼んでいるが、そう時間は長くないであろう。自由と行動を制限すればするほど、みじめな最後となる。もちろん安全は大切である。介護事故と医療事故との大きな違いを現在多くの人が気づいている。転倒はどこでも起きる。床材も含め、建物の安全対策も始まりだした。車椅子も多様なものが出来てきた。褥創も寝たきりではなく、車椅子でできるようになってきた。

ベッドの対応図(PDF 45.8KB)

4. 医師の役割

1) 診断
2) 身体合併症の診断と治療
3) 問題行動を始めとした認知症の説明 特に家族に対して
4) ケアーで対応できない問題症状に対する向精神薬の使用
5) 認知症のリハビリテーションの処方
6) アリセプト

5. 福岡抑制廃止宣言

福岡の老人病院のグループは、熱心に定期的に勉強会を開いていたが、十分な結果を得られなかった。有吉病院の有吉院長の発想で、抑制をやめることをはじめたらどうかとういうことになり、1997年私たちがお手伝いすることになった。最初、300名位の人たちにお話をした時には、それほどの反応はなかったように思われたが、話の内容は「抑制の弊害と、いかに抑制がわれわれケアする側の都合によるものが多いか」といった趣旨であった。彼らの動きは素早かった。3ヶ月位たっての勉強会、正式には招かれなかったが、出かけてみると皆の穏やかな笑いが目立つ。ウェルカムの雰囲気が漂っていた。

「モラルとモラール」からこの3年間をふりかえる

人手を多くして寝たきりをなくそうという「介護力強化」という老人の定額医療が広がりはじめたころ、よく「なぜ抑制はなくならないのか」という問いにさらされた。
「世の中には、笑顔のように、伝わりやすいものとそうでないものがある。正しいことというか、実行するのが少し面倒だったり我慢しなければならないといったことは、なかなか広がりにくいものなのだ」と私は答えていた。
さらに以前、老人医療との出会いのころ、私はこの国の老人医療には「モラルとモラールの両方がないのだ」と直観し、そのことを語ろうとした。しかし混沌のなかで、なにをどのようにおこなえばよいのかわからず、医者も看護師もただ急性期医療を中途半端にまねた医療モデルを実践していたのだ。そこには数々の医療的な弊害があった。その最悪のものが抑制であり縛りづけの医療である。そんな職場で、働きがいや意欲の向上などあるわけもなかった。
モラルとモラールが見当たらない。この二つはそもそも共存することができるのだろうか。いずれにしろ、十分には説明できなかった。
3年前のこの対談のときも、まだまとまってはいない。しかし翌年から翌々年にかけて福岡で抑制廃止の運動をまきおこしていくなかで、上川病院での試みの“再現”に答えをみつけていくことになる。
多くの病院が抑制をやめようと決意すると、85%以上の、いわばまったく不要だった抑制をやめることができた。笑顔の戻った患者さんや家族の安心感と信頼感のなかで看護師たちも明るくなり、自分たちの仕事を誇れるようになる。やめられないケースへの「抑制はずし」の工夫も、楽しい、やりがいのある仕事となってくる。そしてじつは抑制ゼロへの挑戦そのものが、ケアの技術の向上と、老人医療の専門性の確立に役立っていくだろう。
まさにモラルがあり、そしてモラールが高まっていく光景である。このわかりやすい、小さな正義の実践を、人々は高く評価した。
「抑制をやめることなどできっこない」という固定観念との闘いのあとに開かれてくる新しいケアの世界では、すべてのことが解決されるわけではないが、皆が対等に話し合って決めていくといった契約というルールが老人医療の現場でもあたりまえとなってくる。老人医療・ケアの将来は明るく健全なものとなるだろう。
世界各国のナーシングホームでも身体拘束はよく見られるが、日本では特に老人医療の現場で治療のため、安全のため、自分たちの都合での抑制が多すぎたのである。85%の抑制は比較的容易になくせた。残る15%も少しずつだがなくすことが可能であった。この宣言は、世界でも例のないものである。この風は、九州の一部と北海道へ飛んだ。

6. 介護保険下での身体拘束原則廃止

1999年3月介護保険施行1年前、今までの治療中心の医療保険ではなく、生活の自立と生活そのものを支える介護保険という新しい制度の中で、特に認知症のお年寄りを縛ってどうするんだという意見が出ても不思議ではない。自立支援に逆行するわけなのだから。もうひとつ、介護保険の中には、ケアプランや苦情処理方法などはあるが、もう一つ認知症ケアの質の担保が何もなかった。身体拘束をしないで、安全にケアすることが認知症ケアの技術レベルを比較的簡単に上げることが福岡で実証されたわけだ。おそらく審議会の中で、医者は治療は例外、福祉関係者は車椅子のベルトとベッド柵は例外、と思っていたように想像される。

7. 認知症老人の自立とは

(1) 院内グループホームケア
(2) 楽器演奏(ビデオ)
こういった中で、自分にはまだ役割がある、生きていてもよいのだ、と思う。こういった社会的役割とこの姿を愛する家族が見て、自分のおばあちゃんはぼけてしまったがこういう状態ならもっと長生きして欲しい、と感じる。これは家族にとって存在役割である。この2つを取り戻すことが、認知症老人の自立ではないかと思う。
西欧では、神の下で皆平等というところから人権意識が一般的となる。一方、我思うが故に我ありという考え方がある。我思わなくなった認知症老人に対して少しドライなところがある。例えば、肺炎に対して抗生物質の経口投与は行うが、静脈からの点滴等では使用しない。わが国では、定額医療の中でも回復が予測されれば行っているのが現実である。
アジアは今、ちょうど10年位資本主義と高齢化が日本とずれている。村上春樹の小説がアジアやロシアで読まれているのもそんなことなのだろう。
ウェットなアジアの中で、わが国の老人医療はモデルの1つとなり得るだろう。

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